こんにちは。今回の酒トークでは前回に引き続き、近代に入り酒造家が異業種に参入した事例をご紹介します。今回は辰馬本家のマッチ製造です。

辰馬本家のマッチ生産は、神戸にあった監獄付属のマッチ製造場の払下げを受けたことに始まります。この神戸監獄付属マッチ製造場は明治10年(1877)に操業を開始した県内最初期のマッチ工場で、収監者が製造を行っていました。しかし、明治14年(1881)に監獄内での危険物取扱を禁止することとなり操業を停止し、明治17年(1884)に辰馬本家に払い下げられたとみられます。かくして同年7月からは日出館として神戸でのマッチ製造を開始しました。

日出館でのマッチ事業は辰馬本家の他3者と共同出資で行われていました。そして、その内の1人であり辰馬家の一門である中島成教が日出館館長に就任し、明治24年(1891)まで操業していました。その間に得たノウハウをもとに、明治20年(1887)には辰馬本家の本拠地である、西宮にもマッチ工場日新館を新設しています。日新館はその後分館を設立するまで発展していきました。
ちなみに前回ご紹介した辰馬組レンガ製造部の本部はこの日新館に置かれており、ここは辰馬本家にとって近代的な新規事業を統括する拠点であった可能性もあります。また、酒造業では西宮でもこの頃から蒸気機関による精米が行われていました。蒸気機関を稼働させるためには石炭が必要ですが、マッチ製造でも機械を稼働するのに石炭を必要としており、意外にも酒造業とマッチ製造は親和性があったのかも知れません。関連する史料の中には、石炭を粉砕する機械の図も残されています。

さて、日出館・日新館で生産されたマッチ箱のデザインを見ると、英語で書かれた物が多いのがわかります。当時、最もマッチ生産が盛んであったのが兵庫県で、明治中期以降の国産マッチの多くは輸出品として生産されていました。日出館・日新館で製造されたマッチもまた、神戸の華僑を通して多くは中国へと輸出されていたようです。

今回はレンガに続きマッチの製造に酒造家が臨んでいた様子をご紹介しました。マッチの販路は主に海外ですが、同時期に清酒の販路を海外に求めるようになります。マッチ生産が本業である酒造業とどのように関わるのかは、今後も考えていきたいと思います。
それでは来月も引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。
大事な商売道具の話やで