こんにちは。いよいよ秋が深まり酒づくりも本格化してきました。今回は酒のつくり手である杜氏についてのご紹介です。以前ご紹介したように、酒ミュージアムのある兵庫県西宮市は、江戸時代からの酒どころです。ここで酒づくりを行っていたのは、秋になると丹波国からやってくる丹波杜氏たちでした。
それではまず、「丹波杜氏」という言葉について触れておきましょう。この言葉は「丹波」と「杜氏」という2単語を合わせて作られています。「丹波」の部分は他の地名に替えられ、例えば南部杜氏・越後杜氏のように全国の至る所の地名が入ります。こうした地名を冠した杜氏集団は日本全国に数十確認されています。この〇〇杜氏の中で、特に有名なのが上方の日本酒文化を形作った丹波杜氏というわけです。
では丹波杜氏のふるさと丹波国について見ていきましょう。丹波国は、西宮のある摂津国の北隣りにあり、現在の兵庫県と京都府にまたがる地域です。この丹波国に7郡があり、その内南西部にある多紀郡・氷上郡・船井郡の3郡、特に多紀郡から多くの丹波杜氏が輩出されてきました。江戸時代には、山深い丹波国から西宮の酒蔵までは、国境を越え峠道を1日がかりでやって来なければなりません。そのため、秋ごろに丹波国を出た杜氏たちは、春まで家族と会わずに酒蔵で酒造りに従事するといった生活を送っていました。こうした過酷な出稼ぎ生活をするのは、①丹波国は山深く収入が少ない ②酒づくりの出稼ぎは賃金が良い、といった理由が考えられています。
こうして丹波杜氏は酒蔵にやってくると、仕舞い込んでいた酒造道具を前庭に出し、道具の手入れや掃除を始めます。この「秋洗い」と呼ばれる作業の際は、哀愁ある「秋洗い唄」を唄いながら作業をしていました。そのため、かつての西宮ではこの時期になると、たくさんの酒蔵から秋洗い唄が聞こえてきたと言われます。秋洗いが終わると、いよいよ酒づくりが始まります。春まで続く酒づくりは約100日間に及び、更に酒づくりを終えても杜氏・蔵人の一部は居残り「酒焚き」と呼ばれる加熱殺菌処理を行います。こうして、春の半ばまでを西宮で過ごし、ようやくすべての杜氏たちが家族の待つ丹波へと帰って行きました。
丹波杜氏については、酒づくりの詳しい内容や役割分担など、まだまだご紹介しきれていないので改めてご紹介します。それでは、来月もよろしくお願いします。
まずは近場の日本遺産巡りで!