こんにちは。3月に入り今年も三寒四温を繰り返しながら春を待つことになりそうですね。気温が上がる3月は、江戸時代であれば酒づくりもひと段落で、ここから江戸での販売に向けて樽廻船での輸送が活気を帯びてきます。今回の酒トークでは新酒番船と呼ばれる江戸時代の習慣についてご紹介します。
江戸―上方間の酒の流通は、シーズンの初めに「新酒番船」と呼ばれる樽廻船の競争で幕を開けていました。大坂と西宮の樽廻船問屋が、新酒番船に参加する樽廻船8艘前後を用意し、時を同じくして出帆して江戸で酒の販売を担う下り酒問屋が集まる新川を目指して着順を競います。この習慣がいつから始まったのか明確な記録は残されていませんが、遅くとも元禄時代(1688~1704年)には開催されていたと考えられています。この新酒番船という習慣は、これに関わる樽廻船の船頭、荷主である酒造家たち、江戸への販売を担う下り酒問屋、それぞれの一年間の命運がかかっていました。
では、まず新酒番船の盛り上がりがわかる作品から見て行きましょう。「新酒番船入津繁栄図」という錦絵には、慶応2年(1866)3月19日に一斉に西宮を出発した樽廻船の内、3月28日巳の上刻(午前9時ごろ)に新川に一番乗り(=惣一番)で到着した勢悦丸(船頭勝六)の乗組員が赤い法被を纏い「惣一番」と記された幟を立て、町を練り歩いている様子が描かれています。このように新酒番船の一番乗りを果たした船頭は、大変な名誉を得ていたことがわかります。また名誉だけでなく、この船頭の乗り込む樽廻船は1年間、荷物の積込みで優遇される実益も与えられていました。
さらに、新酒番船惣一番の船に積まれた酒も恩恵を受けていました。例えば先ほどの勢悦丸に積まれていた西宮の酒造家辰屋吉左衛門の白鹿印酒には20樽あたり68両の値が付きました。一方で、勢悦丸から3日遅れて4月1日に新川に到着した神随丸に積まれた同じ白鹿印酒は、20樽あたり63両2分で取引されています。このように、惣一番の船に積まれた酒にはご祝儀で高値が付けられます。また、この時の価格が年間を通して基準の価格ともなるため、新酒番船には上方の酒造家はもちろん、江戸の下り酒問屋も強い関心を持っていました。江戸酒市場の需給状況と酒の価格は密接に関係するため、上方酒造家は下り酒問屋からの情報をもとに、新酒番船の開催日を慎重に決定していました。
今回は新酒番船についてご紹介しました。新酒番船をはじめ、樽廻船の運用については次回ご紹介したいと思います。来月も引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。
酒米にも歴史ありやな。