こんにちは。10月1日は日本酒の日です。みなさま本日はぜひ日本酒で乾杯をお願いいたします。西宮では10月5日・6日に西宮酒ぐらルネサンスという毎年恒例の催しがありますので、この機会にぜひ酒ミュージアムにも遊びに来てください。今回の酒トークでは前回に引き続き酒資料室「西宮・今津の酒造家オールスター」に合わせて、初代辰馬悦蔵についてご紹介したいと思います。
初代辰馬悦蔵は幕末文久2年(1862)に辰馬本家から分家し、現在の白鷹株式会社を創業した人物で、酒の品質にこだわりを持っていたことが窺える様々なエピソードが伝わっています。ここではその中の1つ「村米制度」の成立と辰馬悦蔵の関係についてご紹介しておきましょう。「村米制度」とは、酒米農家と灘の酒蔵が結ぶ酒米買取契約制度です。辰馬悦蔵が当主であった幕末~明治は、様々な制度が変わる激動の時代で、租税制度も江戸時代の年貢から金納に変化しました。その影響から、明治初期は良質な酒米を手に入れることが困難な時代となりました。そこで辰馬悦蔵は、兵庫県美嚢郡吉川村(現在三木市吉川町)の農家との間で酒米買取契約を締結し、良質な酒米を確保しました。こうした契約は、酒蔵にとっては良質な原料米を確保でき、農家にとっては販売先に困ることがなくなるため、双方に利益があり、以降灘の多くの酒造家が同様の契約を行い「村米制度」が調えられていきました。
このように、酒造業で数々の業績を残した初代辰馬悦蔵は、酒造業以外にも文人画家富岡鉄斎との交流がよく知られています。国の重要文化財ともなっている作品「安倍仲麻呂明州望月/円通大師呉門隠棲」図屏風(辰馬考古資料館所蔵)は、大正3年(1914)に悦蔵の隠居場で制作したものです。
ここで初代辰馬悦蔵と富岡鉄斎の関係をさらに知るために、悦蔵が13代辰馬吉左衛門に宛てた書簡をみてみましょう。書簡には「甚粗軸ナガラ鉄斎老人真筆御慰ニ迄呈進致候」と書かれており、悦蔵が吉左衛門に富岡鉄斎の作品を贈っていたことがわかります。この作品を辰馬本家酒造では宝とし、大正6年(1917)に辰馬本家酒造の本社屋を新築した際には、来賓に配るための袱紗の図柄としました。また、辰馬本家酒造の求めに応じ、富岡鉄斎は朱筆の「寿」という書も制作しています。初代辰馬悦蔵と富岡鉄斎の交流は、本家と富岡鉄斎をも結び付けたとも言えるでしょう。
今回は、初代辰馬悦蔵についてご紹介しました。次回は引き続き辰馬喜十郎についてご紹介しますので、来月もどうぞよろしくお願い申し上げます。
微生物の世界は奥深いんやで