こんにちは。今年も師走となり、せわしないシーズンがやってきました。忙しい毎日、息抜きに日本酒でもいかがでしょうか。さて、今回の酒トークでは、「黒松白鹿」の生みの親とされる丹波杜氏の梅田多三郎についてご紹介します。
幕末の文久元年(1861)に生まれた梅田多三郎が、丹波杜氏の一員として清酒白鹿醸造元である辰馬本家酒造で酒造りをはじめたのは、明治14年(1881)20才の頃でした。当時、酒造りの季節労働は、十代から行っていることも少なくなく、それ以前は他の酒造会社の酒蔵で働いていた可能性があります。明治14年以降辰馬本家酒造の酒蔵で研鑽を積み、明治24年(1891)に初めて新田2番蔵の杜氏職を任されます。以降明治34年(1901)まで新田2番蔵杜氏、明治35年(1902)から明治42年(1909)まで中東蔵杜氏、明治43年(1910)から大正4年(1915)まで新蔵杜氏、大正6年(1917)からは辰馬本家酒造が新たに建築した北新田4番蔵杜氏を任されました。このように各蔵の杜氏を歴任し、昭和6年(1931)まで務め、昭和7年(1932)5月に亡くなった梅田多三郎のキャリアは辰馬本家酒造だけでも51年に及び、その間大正9年(1920)に「黒松白鹿」の製法を開発した人物として語り継がれています。
梅田多三郎の人物・業績について、「性温厚ニシテ研究心深ク年々本社ノ代表的優良酒ヲ醸造し、又多数の杜氏ヲ部下ヨリ輩出セリ、然シテ主人並ニ部下ノ信望厚く斯界ニ於ケル一大権威者ナリ、其醸造酒ハ西宮税務署清酒鑑評会ニ於テ一回ヨリ十二回迄全部入賞シ特別ノ表彰ヲ受ク」といった記録があります。ここに書かれているように、梅田多三郎本人の酒造技術が大変優れたものであっただけでなく、当時約三十人いた辰馬本家酒造の杜氏をとりまとめる杜氏監督を務めるとともに、後進の育成にも取り組み会社に多大な功績を残しました。
実際に、梅田多三郎が育てた蔵人が杜氏に昇格すると、当時辰馬本家酒造の主力酒蔵であった新田蔵・北新田蔵の杜氏職を任されることが多く、技術が引き継がれていきました。梅田多三郎の下で麹づくりの責任者を務め、大正15年(1926)から北新田1番蔵杜氏を務めた福井正太郎は、酒造りの方法をメモに遺しています。もしかすると、ここに梅田多三郎の技術が記録されているのかもしれません。梅田多三郎の技術は杜氏から杜氏へと戦後にわたって引き継がれていきました。
今回は、明治から昭和にかけて活躍した名杜氏梅田多三郎についてご紹介しました。それでは、来月もよろしくお願いします。
良い酒づくりには白くきれいな米が必要なんやで!