こんにちは。今月は、昭和20年(1945)年8月15日の終戦から80年の節目を迎えます。総務省のホームページによれば、昭和20年5月から8月にかけて、西宮は5度の空襲に遭っています。西宮の町はもちろん、多くの酒蔵も被害を受けました。今回は、西宮空襲時の酒蔵についてご紹介します。

辰馬本家酒造の酒蔵が直接的な被害を受けたのは、8月5日夜半から6日にかけての5度目の西宮空襲でした。紀伊水道から侵入したアメリカ軍B29爆撃機は、西宮に大量の焼夷弾を投下し、その一部は辰馬本家酒造敷地にさく裂しました。この空襲では、稼働していた主力の新田蔵の他、戦争長期化に伴う物資不足等による戦時統制の影響を受け、休造していた蔵を含め多くの酒蔵が被害を受けました。

こうした焼夷弾に対抗するため、社員たちは特設防衛団を組織し、日ごろから訓練を行っていました。実際8月5日の空襲時には、バケツリレーやポンプを使った放水を実施して消火に貢献し、西宮消防署長より表彰状が贈られています。こうした社員たちの奮戦もありましたが、最終的に空襲前に辰馬本家酒造が所有していた53蔵の内30蔵が全焼(この内当時操業していた22蔵の内9蔵が全焼)しました。さらに、建物疎開で取り壊した酒蔵を含めると36蔵を失いました。酒蔵以外にも、精米所や倉庫、社宅など20施設が全焼となりました。全焼した酒蔵のほとんどで、焼夷弾が屋根を突き破って2階に到達し、2階から焼損していきました。酒蔵の1階部分には冬に醸造した酒が貯蔵されていましたが、焼け残っていた酒はアルコール分が焼けた甘い酒となり税務署立ち合いの上で廃棄処分になったと記録されています。

多くの酒造会社が主力酒蔵を失う中で、最終的に辰馬本家酒造の主力であった白鹿館、新田蔵1~10番蔵、北新田蔵1~5番蔵の内、焼夷弾が命中したのは白鹿館と新田1・2・3・4・6番蔵に限られました。白鹿館は鉄筋コンクリート造でしたが、焼夷弾を束ねたものが落下して屋根を突き抜けて二階部分に到達しました。破裂した際、たまたま館内の水道本管を破り、そこから噴出した水道の水により鎮火する結果となり被害は少なくすみました。また、新田2番蔵も防衛団による消火活動が成功し全焼は免れました。
灘五郷では西宮・今津だけでなく神戸の酒蔵も空襲で大きな被害を受けました。その中にあって辰馬本家酒造では、主力蔵の一部の被害で済んだのは幸運だったと言えるかもしれません。今回は、戦後80年を機会に西宮空襲による酒蔵の被害についてご紹介しました。これからの世が永く平和であることを祈るばかりです。それではまた来月もよろしくお願いします。
有名人との接点もあったんやね