こんにちは。残暑が厳しい9月のスタートですが、いかがお過ごしでしょうか。酒トークでは、前回に引き続き精米の歴史をご紹介します。前回は、人力に頼る足踏精米と自然の力に頼る水車精米という江戸時代の精米方法についてご紹介しました。今回は、明治維新を経て近代化する精米方法についてご紹介していきます。
明治に入っても足踏精米・水車精米は、引き続き実施されていました。しかし、足踏精米は人力に頼るため精米量に限界があり、水車精米は晴天が続くと川の水量が減ってしまうため不安定な所がありました。こうした中、西洋からもたらされた近代技術が精米に活用されることになります。その技術は蒸気機関という物で、船舶や機関車の動力としてよく知られています。蒸気機関が精米に活用されたのは、明治19年(1886)頃からで、当初は堺(現在の大阪府堺市)で使用されていたと言われています。これを西宮の酒造家辰馬喜十郎が明治21年(1888)に西宮に導入し、灘の酒蔵で蒸気機関を使った精米が行われるようになりました。当初は蒸気機関が出す黒煙が、酒質に影響するのではないかという心配の声がありましたが、結局その心配は杞憂に終わり、蒸気機関を使った精米を行う酒造家は次第に増加していきました。
水車精米を行っていた頃は、川の上流付近にある水車精米場から海辺にある酒蔵まで牛を使って米を運ぶ必要があり、西宮の町中を牛が列をなして通行していました。米を引いて町中をゆく牛たちや、水車精米場へ水を送る高樋といった前近代的な町の景色は、酒蔵に併設された蒸気機関を使った近代的な精米工場の登場で次第に姿を消していったようです。産業技術の進化は、町の様子をも変えていきました。
さて、精米技術はさらに進化し、やがて臼杵式の精米から機械による精米が主流となります。世界初の精米機はイギリスで開発され、その後アメリカでもコーヒーの皮むき機を応用した精米機が開発されました。日本ではエドワード・ハズレット・ハンター(神戸北野異人館街のハンター坂などで有名)が、明治18年(1885)から神戸で精米事業を始めた際に、ドイツ製の精米機を導入したことがわかっています。国内でも明治29年(1896)に広島県で佐竹利市が「連打式臼型搗精機」を発明します。佐竹利市はその後も改良を重ね続けたほか、清水廣吉や今橋芳松なども精米機の開発に取り組み開発競争が起こります。そして、現在につながる竪型精米機が全国に普及していきました。概ね昭和初期頃には全国の酒蔵が精米工程に限って言えば同水準の技術を手に入れたとも考えられます。
現在では大吟醸をつくるための基準である50%精米も行われるなど、昭和初期と比べてさらに高水準の精米技術へと進化しています。近年は精米した米の形状までコントロールする技術が生み出されています。精米技術の進歩に思いを馳せながらお酒を飲んでみるのも良いのではないでしょうか。それでは来月もよろしくお願いします。
良い酒には良い酒器を!