だんだんと気温が上がり梅雨が近づいてきましたね。今月には夏に先駆けて海開きとなる地域も増えてきそうです。さて、今月の酒トークでは海に因んで樽廻船についてご紹介します。以前樽廻船については、酒を運ぶ航路についてご紹介しましたが、今回は航海の様子について見て行きましょう。
それでは西宮の酒造家・辰屋吉左衛門が幕末に所有していた樽廻船・辰悦丸に関する史料「辰悦丸亀之助船道具附覚」から、当時の樽廻船についてご紹介しましょう。辰悦丸は1,700石積で全長50mを超える規模と考えられ、酒樽を3,000樽程度の積み込むことができる当時最大級の樽廻船でした。船体は杉材で造られ、船道具も様々な物が搭載されていたことがわかります。例えば碇はサイズの異なる7頭(最大470㎏の物から約20kgずつ軽いサイズを7種類)が搭載され、状況に応じて使用されていました。
これらの船道具を操り江戸・上方間を航海する乗組員についても見てみましょう。辰悦丸の乗組員数は16名であったと記され、この規模の廻船では一般的な人数となっています。この乗組員が航海中に使う物資について記された「辰悦丸仕入帳」を見ると、米・味噌・香の物・醤油・塩・酢・酒・茶・ぬか・油・薪・かみそり・渋・蝋燭・縄・莚といった物資が積み込まれていたことがわかります。江戸までの航海は通常1~2週間ほどかかるため、この間に乗組員が消費する食料も酒樽等とは別に積み込まれていました。また、ここに記された物資の他に必要な食糧等を購入するための金銭も支給されていました。
次に、こうした乗組員たちに課せられた規則から当時の航海の様子を見てみましょう。慶応元年(1865)の「取締書附之事」には、12箇条の禁止事項等が記されています。例えば3条目では、鳥羽的矢(現在の三重県鳥羽市・志摩市)や伊豆国下田(現在の静岡県下田市)のほかの浦で、朝酒盛をすることを禁じています。他に4条目・5条目・10条目と、実に1/4の条文で酒盛りを禁じています。先述の「辰悦丸仕入帳」にも乗組員たち用の酒が積み込まれていましたが、風を待つために入港した浦々で新たに購入しての飲酒が問題になっていたと考えられます。港で滞船するのは順風を待つ場合が多いのですが、酒盛りが始まってしまうと風向きが変わっても出港せず江戸へ到着するのが遅くなったり、酩酊状態で航海を行うと事故を起こしたり、といったことも考えられるためこうした規則を設けているものと考えられます。
今回は樽廻船の航海に関する実態を古文書から紐解いてみました。新たな発見もあったんじゃないでしょうか。次回もどうぞよろしくお願い申し上げます。
大きな酒林を見に来てな!