こんにちは。酒トークも4年目に入り今年も春がやってきました。春と言えばお花見です。酒とさくらの博物館である酒ミュージアムにもぜひお越しくださいませ。さて、先月は新酒番船についてご紹介しましたので、樽廻船についての理解をさらに深めて頂くために、今月は酒造家による樽廻船の所有と運用についてご紹介します。
樽廻船の所有者について幕末期の史料を見ると、多くの船が上方酒造家の所有となっています。西宮の辰屋吉左衛門も延べ6艘の樽廻船を所有していました。しかし、所有といっても1艘の樽廻船の建造費を1人の酒造家が負担することはありませんでした。これは、1艘の建造費が極めて高額であるのに対し、1度の航海で船が壊れる可能性もあり極めてリスクが高いためでした。そのため、樽廻船の建造に際して複数の酒造家が出資しており、辰屋吉左衛門が所有する辰吉丸の場合、辰屋吉左衛門が建造費の25%、大口出資者7名で61%、その他小口の出資者13名で14%を負担していました。このように辰屋吉左衛門は所有者とは言え建造費の1/4の負担で済んでおり、所有のハードルがかなり下がっていることがわかります。一方出資者たちは、樽廻船が稼働したことによって得られる運賃収入を出資割合に応じて受け取ることができたり、出資者が酒造家の場合、必ず荷物を積み込むことができる特約を結んだりしていました。
樽廻船の運用についても見て行きましょう。実は所有する樽廻船であっても自由に酒樽を積込めたわけではありません。樽廻船への酒樽の積込みの加減は、西宮と大坂の伝法・安治川に店を構える樽廻船問屋が差配していました。実際には、各樽廻船は原則として樽廻船問屋に運営を委ねるのがルールとなっており、例えば辰屋吉左衛門の所有する樽廻船は、辰吉丸・辰栄丸・辰力丸・辰宝丸は大坂安治川の樽廻船問屋柴田正二郎が、喜悦丸は同じく大坂の毛馬屋五郎が、辰悦丸は西宮の樽廻船問屋藤田伊兵衛が積込みを差配していました。
では1艘の樽廻船にはどのぐらいの種類の酒樽が積込まれていたのでしょうか。文久2年(1862)9月に上方から江戸へ酒樽を運んだ辰栄丸を例に見てみましょう。辰栄丸には、70名の酒造家の酒樽合わせて3,745樽(味醂も含む)が積まれていました。樽廻船の所有者である辰屋吉左衛門の酒樽は265樽で全体の7%程度とそれほど多くありません。但し、70名の中では最も多くの酒樽を積み込んでいました。
このように、樽廻船の運用は所有者や出資者に一定の配慮のある積込数とはなっているものの、過度に偏った積込みは行われていませんでした。尚、この年辰屋吉左衛門は7千樽を超える酒樽を32回に分けて江戸へ輸送していました。これは万一事故により積荷を失っても被害を限定的なものにするために分散して積込んでいたものと考えられます。
次回は樽廻船の事故についてご紹介します。次回もよろしくお願い申し上げます。
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