皆さん、あけましておめでとうございます。今年もコラム「桜つれづれ」では、笹部新太郎さんや桜にまつわる知って楽しいお話をお届けしていきたいと考えています。月一回の更新にはなりますが、楽しみにお待ちいただければ幸いです。
さて、新年一回目の今回は、前回にも関わるお話ということで、平安時代に宮廷で行われた「花見」についてご紹介いたします。
まず、平安時代の花見について考えていく前提として、『日本後紀』を紐解いて嵯峨天皇が弘仁3年(812)2月12日に神泉苑(現在の京都市中京区。宮廷儀式などを行う庭園)で行った「花宴(はなのえん)」について見ていきましょう。花宴では、神泉苑に出かけた嵯峨天皇は「花樹」を見て、参加者に漢詩を読ませています。春先に花を愛でる宴を行っているという点から、今のような花見につながるものだと思われるかもしれませんが、『日本後紀』には花の種類は書かれていません。旧暦の2月といえば現在の3月頃にあたりますが、桜を鑑賞する現代の「花見」と同一視するのは、史料を見る限り少々難しそうです。
承和11年(844)8月に仁明天皇が紫宸殿(内裏の一施設。天皇が政務を行う場所)で同じく「花宴」と呼ばれる行事を行っていることを踏まえると、花の種類に関係なく、花を愛でる行事を一括して「花宴」と呼んでいた可能性が高いと考えられます。
それでは、桜を見物し宴会を行う現代のような「花見」は、平安時代には行われていないのでしょうか。そこで注目したいのが、前回も少しだけご紹介した9世紀半ば頃の天皇の動きです。仁寿3年(853)2月30日、貞観6年(864)2月25日、貞観8年(866)閏3月1日に文徳・清和両天皇が藤原良房(804~872)の邸宅である「染殿」へ桜を見物するために行幸し、宴を行っています。宴では飲食・漢詩・雅楽・競射(的に向かって弓を射る競技)などを盛大に楽しんでおり、付き従った人々には褒美の品を与えるなど一大行事でした。
この染殿への行幸は、その目的として「桜花を覧ず」「桜花を観る」と記されており、桜を見物し宴を行う今日の「花見」に通ずるものでした。
それでは、どうして9世紀半ばに天皇が桜を見るために出かけるようになったのでしょうか。文徳・清和より前に桜見物のために出かけたことが明確な天皇はいません。そのことには、紫宸殿前の梅を左近の桜に植え替えたと考えられている仁明天皇(810~850)が大きく関係していると考えられます。仁明天皇の死後、良房は自らの邸宅である染殿で天皇のための法要を行いました。その際に良房は「仁明天皇は私の家の桜を見たがっていた。しかし、突然亡くなってしまったので見ていただくことができなかった」と悲しみました(『日本文徳天皇実録』)。この出来事から、染殿の桜は仁明天皇の遺愛の桜であると広まり、続く文徳・清和両天皇が行幸を行うことにつながったのではないでしょうか。
しかし、まだまだ分からない点も多くあります。たとえば、今回ご紹介したのはあくまで仁明・文徳・清和という天皇3代の桜にまつわるエピソードにすぎず、これだけで平安時代の人々が桜に親しんでいたということはできません。9世紀半ば頃の桜について深掘りすることで、平安時代の花見の実態について迫っていけるのではないかと考えています。
次回もお楽しみに!!
笹部さんはどんな年賀状を送っていたのかしら?