こんにちは。7月に入りやはり今年も暑くなりそうですね。酒トークをご覧の皆様もどうか体調にはお気をつけください。さて、今月から私たちの生活にも大きく関わる紙幣が新しくなります。例えば、一万円札は福沢諭吉から近代の実業家渋沢栄一に変更になります。長年使い慣れた福沢諭吉の紙幣を見る機会が減っていくのはさみしさもあります。一方で新しい絵柄に採用された渋沢栄一は、明治時代の酒造家とも関わりのある人物でした。今回の酒トークでは新紙幣発行を記念して、渋沢栄一と辰馬吉左衛門の関係についてご紹介します。
写真の書簡は渋沢栄一が13代辰馬吉左衛門に宛てたものです。内容をみると渋沢は、日韓の通商上大きな役割を担う、京城(ソウル)と釜山(プサン)を結ぶ京釜鉄道の整備を訴えています。そして、第二回の株式募集を決議したので辰馬吉左衛門にも相応の株式を引き受けるよう求めると同時に、一族へも勧誘するよう依頼しています(この依頼に応じて辰馬吉左衛門が株式を取得したという記録は現状確認できていません)。書簡は京釜鉄道株式会社が設立された明治34年(1901)11月12日に渋沢が認めています。
では、渋沢は辰馬家とどのような付き合いがあったのでしょうか。この書簡が送られたのと同じ年、明治34年6月に辰馬吉左衛門は13代目の襲名を披露しました。そのため、この時点で財界の大物である渋沢栄一との相続したばかりの13代目の間に関係が構築されていたとは考えられません。では、渋沢はなぜ書簡を送ったのでしょうか。
これには、明治15年(1882)に渋沢栄一が関わって設立された共同運輸会社と辰馬本家商店との取引が関係している可能性があります。共同運輸会社とは、岩崎弥太郎が明治8年(1875)に設立した郵便汽船三菱会社に対抗して設立された海運会社です。
明治17年(1884)西宮の酒蔵から東京その他へ酒樽を輸送する窓口として11代辰馬吉左衛門は共同運輸会社の西宮代理店を引き受けました。当時の辰馬本家商店の絵図にも入口に「共同運輸会社西宮代理店」という表札が掲げられています。つまり、11代辰馬吉左衛門以来渋沢は辰馬家と関係していたと考えられ、13代に対しても株式募集に応じるよう書簡を送ったものと考えられます。今回は渋沢栄一から送られた書簡をご紹介しました。渋沢の共同運輸会社は明治18年(1885)に郵便汽船三菱会社と合併し巨大海運会社、日本郵船会社が誕生します。一方13代辰馬吉左衛門も辰馬汽船株式会社を設立するなど近代海運史に名を残します。辰馬汽船についてはいずれまたご紹介したいと思います。それでは来月もよろしくお願いします。
酒づくりの達人は丹波からやってくるんやで