こんにちは。燗酒の美味しい冬の季節は楽しまれているでしょうか。前回は江戸下り酒問屋についてご紹介しましたが、今回は近代に入り、灘の酒が東京だけでなく全国的に販路を広げる際に活躍した特約店についてご紹介します。

特約店とは、酒造会社がその地域での販売を促進するため、問屋に有利な条件で販売を委託する契約を結んだ店のことで、白鹿醸造元の辰馬本家酒造では、明治以降東京一極集中から脱して、全国にこうした特約店を増やしていきました。明治34年(1901)の販売実績を見ると、合計28,483駄の内、東京積が13,998駄で、地方積が14,485駄となっており、この年以降東京よりも地方への出荷量が上回るようになりました。昭和3年(1928)には特約店契約を結んだ各地の問屋数は全国で97店に及びました。

ここで紹介する史料は、97の特約店のひとつであった青森県大町(現在の弘前市)の横井與吉との特約契約開始時の様子がわかる書簡です。横井は青森で酒の小売店を営んでおり、当初青森の佐野が特約店契約に名乗りを上げましたが、佐野は主にびん詰め業を主としているため、親友である横井が改めて白鹿を青森で一手に販売する特約店契約に名乗りを上げた、という経緯が記されています。そして、早速手始めに10駄(=20樽)を送るよう依頼し、代金である256円分の為替まで同封して、特約販売約定書を送るよう依頼しています。この書簡からは、横井が白鹿との特約店契約を強く希望していることがわかります。横井のような事例が重なって、昭和初期にかけて東京から地方への販売網が広がったものと考えられます。尚、この横井との取引は、昭和7年(1932)まで続いていたことが確認できます。


明治以来のこうした特約店との関係に大きな変化をもたらしたのが、第二次世界大戦でした。戦時下では食料を確保する必要から、米を原料とする酒の生産は制限されました。そのため政府は、価格高騰を抑えるために公定価格や配給制度を布きました。そして、酒造会社は、生産した酒は全て国や道府県の酒類販売会社に納入することになり、これまでの特約店との関係は解消せざるを得ませんでした。戦後は酒類販売会社が解散し、酒類配給公団を経て自由取引に戻りましたが、戦前の取引先が復活するケースは稀でした。往時の取引について、現役社員にはほとんど伝わっていません。 こうした酒販の歴史について、3月5日まで酒資料室でご紹介しておりますので、ご覧の皆様はぜひご見学頂ければと思います。それでは来月もどうぞよろしくお願い申し上げます。


麹づくりは、酒づくりで1番大事なんやで!