こんにちは、今月の酒トークは国内外にある日本酒・清酒生産地域の中でも日本一を誇る灘五郷についてのご紹介です。 灘五郷とは、東から順番に今津・西宮(以上西宮市)・魚崎・御影・西郷(以上神戸市)にある日本酒生産地のことを言います。 前回ご紹介した酒ミュージアムがある西宮も、灘五郷の一つなのです。
実は、現在よく知られている灘五郷という枠組みは、成立過程が異なるため江戸時代にはありませんでした。 まずは、灘五郷の成立について見ていきましょう。 前回「酒のまち西宮」でご紹介したように、西宮は早くから町として栄えていたことから、他の4郷よりも早く酒造りが始まりました。その後4郷へも日本酒造りの技術が伝わると、江戸時代後期には先行していた伊丹や西宮を凌ぐ発展をみせるほどに成長しました。 それでは、灘五郷というくくり方はいつから始まるのでしょうか。明治21年に刊行された『摂州灘酒造方法実験説』という本には、「明治十九年同地ノ同業者相謀リ同地ニ灘酒造業組合事務所ヲ設置スルニ至リテ更ニ西ノ宮、今津ノ二郷モ此内ニ加ヘリ」と記されています。つまり、灘五郷という枠組みは明治19年に初めて誕生したのです。
次に、灘五郷はなぜ日本一の日本酒生産地域になったのかについて、紐解いていきましょう。 まず、1つ目の条件は日本酒造りの材料にあります。日本酒の材料と言えば米と水になります。米は江戸時代、諸国の年貢米が大坂に集まっていました。そのため、大坂に近い西宮や灘の酒蔵は、酒造りに適した米を安定的に供給することができました。また、江戸時代後期になると、西宮がある摂津国や隣国の播磨国で収穫される米が、酒造りに適した米がとれることがわかり、有利に働きました。また、水は西宮の一部地域で採れる宮水が酒造りに適していることが江戸時代後期に判明し、西宮は勿論他の地域へも宮水を運んで酒造りが行われるほどでした。2つ目の条件は気候です。灘五郷地域は北に六甲山があり、そこから吹き下ろす六甲颪という風を利用して、蒸した米を冷ましたり、洗った道具を乾燥させたりしていました。北から吹いてくるこの風を受けやすくするため、この地域の酒蔵は東西に長い構造が好まれました。3つ目の条件は、つくり手である丹波杜氏の技術です。日本三大杜氏にも数えられ、技術の高さは折り紙付きです。この他にも水車精米や、江戸市場との関係など様々な要因が積み重なり、灘五郷は日本一の日本酒生産地域へと発展しました。 今後こうした条件なども、個別に深掘りしてご紹介したいと思いますので、お楽しみに。
杉の香りを感じてみてや!