皆さん、こんにちは。前回は笹部さんが桜の研究を志した青年時代を中心にご紹介しました。今回は、兵庫県宝塚市武田尾(たけだお)の山に桜の演習林である亦楽山荘(えきらくさんそう)を造園してから、昭和33年(1958)に自叙伝『櫻男行状(さくらおとこぎょうじょう)』を出版する71歳頃までのお話をしていきたいと思います。
笹部さんは亦楽山荘で活動していく中で、いくつかの目標を掲げていました。
一つは、できるだけ多くの桜の品種を保存することです。桜を研究するにあたって全国の桜を調査した笹部さんは、桜といえばソメイヨシノ一辺倒になっている状況を忍びなく思っていました。そこで、自身が活動する亦楽山荘では日本に古くからある数多くの桜の品種を育てようとしていました。
それを達成するためには、桜を育てる方法についても研究しなければなりません。そこで、実生(みしょう。種から植物を育てる方法)や接木(つぎき。増やしたい植物の枝を別の木につないで育てる方法)といった栽培方法だけでなく、桜を育てるために必要な薬剤の実験も行っていました。
また、土質も桜の健やかな生育に影響すると考えていた笹部さんは、桜の木だけでなく土壌や肥料にまで着目して研究していました。笹部さんの行った桜の植樹とは、以上のような亦楽山荘での桜に関する総合的な研究に裏打ちされていたのです。 そして、笹部さんの桜への愛情や熱心な取り組みを知った人々が、その知識と経験を頼って、笹部さんに桜の植樹を依頼していきました。
ここに笹部さんの代表的な植樹事業をあげましたが、造幣局や西宮市以外、現存していないものやその後の推移が明らかでない植樹事業も多くあります。というのも、長く続く桜の名所にするためには、そもそも桜の植樹に適した環境を選び、後の管理についても桜の状態を見ながら薬剤を散布するなど継続的に行っていく必要がありました。しかし、当時は戦争の混乱もあり、物資を投入しながら継続的な管理を行うには非常に困難の多い時代だったのです。
そうした時代も過ぎ去り、笹部さんは西宮市の依頼で市内の満池谷・甲山への桜の植樹を手がけました。当時発行された市の広報紙には、桜の管理に関する西宮市の取り組みを評価する笹部さんの原稿が掲載されています。笹部さんの活動とそれに続いた市の努力によって、甲山や満池谷は今なお桜の名所として知られています。
次回は笹部さんが岐阜県で行った晩年の一大事業である荘川(しょうかわ)桜の移植と、日本文化を支えた桜への感謝の念を込めた頌桜(しょうおう)の碑の建立についてご紹介します。お楽しみに!!
花見の歴史は古いのね!