皆さん、こんにちは。前回は笹部さんの行っていた桜研究とそれをもとに各地で行った植樹事業について簡単にご紹介しました。今回は笹部さんの生涯を振り返る最終回ということで晩年の桜に関する活動として、荘川桜(しょうかわざくら)の移植作業と、桜への供養の思いを込めた頌桜(しょうおう)の碑の建立についてご紹介します。
まず、荘川桜のことを皆さんはご存知でしょうか。今も岐阜県高山市荘川町の御母衣湖(みぼろこ)のほとりに咲いている樹齢約450年の2本の桜です。 昭和35年(1960)、関西の政財界人が集まる社交クラブ・大阪倶楽部にて、笹部さんは電源開発株式会社(現J-POWER)の初代総裁である高碕達之助さんからある老桜の移植の相談を持ちかけられました。高碕さんは、電源開発が予定していた御母衣ダムの建設で湖底に沈んでしまう村の住人の心の拠り所になるように、後に荘川桜と呼ばれることになる桜の移植作業を引き受けてくれる人を探していたのでした。
高碕さんの熱意に押されて移植作業を引き受けた笹部さんは、電源開発の紹介で、愛知県豊橋市を中心に活動していた造園業の丹羽政光さんとともに作業を行うことになりました。作業にあたっては高碕さんの尽力でダムの建設に使っていた重機まで動員して進めていきました。はじめに高碕さんが見つけていた桜だけでなく、笹部さんが現地で見つけた別の桜の大樹を含めた2本の移植は、昭和35年11月15日から作業を始め、湖のほとりに移植したのが同年12月24日のことですので、約40日間にもおよぶ仕事でした。
移植すればそれで終了ということはなく、無事に活着(根づいて生長し続けること)するかどうか見届けなくてはなりません。笹部さんはやきもきしながら様子を見守っていましたが、荘川桜は順調に枝・葉の数を増やし、今に至るまで見事な花を咲かせています。(J-POWER様の運営されている荘川桜のページはこちら)
荘川桜のような今を生きる名桜を懸命に救う一方で、笹部さんは「生きている桜だけでなく、版木や鼓の胴の材として日本文化を支えてきた桜に感謝の意を表したい」と次第に考えるようになりました。そこで計画したのが頌桜(注:「頌」はほめるの意)の碑の建立で、奈良県吉野山の竹林院近くを建立場所に選びました。昭和37年(1962)、笹部さんが75歳のときから計画し、昭和40年(1965)に建立が実現しました。
笹部さんは生涯をかけて培ってきた交友関係を頼りながら準備を進め、碑の石材の確保など必要な経費は私財を投じて賄いました。現在でもこの碑は見ることができますので、吉野山に花見に出かけた際などにぜひ一度読んでみて下さい。
ここまで3回にわたって笹部さんの生涯についてご紹介してきました。少々駆け足でしたが、一つ一つの事業については、今後深掘りしていきたいと思っていますのでご期待ください。次回もお楽しみに!!
みなさんは桜の種を見たことがあるかしら?