皆さん、こんにちは。突然ですが、日本で最も有名な桜と言われたら何を思い浮かべるでしょうか。たとえば、前回ご紹介した荘川桜(しょうかわざくら)を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。もしくは、全国でも有数の老木巨木ということで山梨県北杜市の神代桜でしょうか。一番有名な品種ということで、ソメイヨシノを思い浮かべられる方もいらっしゃるかもしれません。人それぞれ色々な観点からの「一番」があると思います。今回は、日本の歴史上非常に古くから記録に残っているという観点から「左近の桜」についてご紹介していきます。
まず、左近の桜はどこに植えられているのでしょうか? 平安時代にさかのぼり、当時の都であった平安京の内裏(だいり。天皇が暮らしていた場所)にある紫宸殿(ししんでん。天皇が政務を行っていた場所)の南側にある庭に植えられていました。左近衛府(さこのえふ。内裏の警備を担当)が儀式の際に整列する場所に植えられていたためにこの名前がついており、その反対側の右近衛府(うこのえふ)が整列する場所には「右近の橘」(橘は柑橘類の一種)が植えられていました。平安時代の紫宸殿は焼けてしまい、現在の京都御所とは場所も異なりますが、現在の位置に再建された紫宸殿の南の庭には左近の桜と右近の橘が植えられています。今回は「左近の桜がいつ植えられたのか」という時期の問題に注目して、ご紹介していきたいと思います。
左近の桜が初めて登場するのは『六国史(りっこくし)』の6番目、『日本三代実録』(延喜元年(901)成立)です。この貞観16年(874)8月24日条には、大風雨が発生し、東宮(皇太子の在所)の紅梅・侍従局(天皇のお傍付が待機する場所)の大梨とともに、紫宸殿南庭の桜(=左近の桜)が倒れてしまったことが記されています。意外なことに、左近の桜の初見は植樹に関する記事ではなく、左近の桜が倒れてしまったという記事なのです。
それでは、いつ植えられたのかは分からないのでしょうか? 結論からお伝えすると、現時点では左近の桜が植えられた年月日を史料上から見つけ出すことはできません。しかし、ここで確認しておきたいのが、六国史の4番目、『続日本後紀』(貞観11年(869)成立)の承和12年(845)2月1日条です。ここでは、仁明天皇が紫宸殿で宴を行い、紫宸殿の南の庭にある「梅花」を折り取ったと記されています。今では左近の桜として広く知られていますが、9世紀半ば頃までは実は梅であったことがこの史料から分かります。これと前の段落でご紹介した『日本三代実録』の記事を合わせて考えると、845年から874年のどこかのタイミングで、梅から桜へ植え替えられたということになるのです。
梅から桜へ植え替えられた時期については『古事談』という説話集に興味深い記事があります。13世紀初頭の成立で、左近の桜が植えられた平安時代と同時代の史料ではありませんが、それによると承和年間(834~847)に梅が枯死したため、仁明天皇が植え替えさせたということです。承和年間と断定しているのが興味深く、『続後紀』の記事から845年までは梅が健在だったことが分かるので、『古事談』を信用するならば承和14年(847)までの約3年の間に植え替えられたことになるのです。
現状、左近の桜が植えられた時期に関してはここまでしか特定することはできませんが、何故この時期に梅から桜へ植え替えられたのかという理由については、もう少し検討の余地があるのではないかと思っています。というのも、9世紀半ば頃から文徳・清和両天皇が臣下である藤原良房の邸宅を、桜を見るために訪れる記事が立て続けに見られ始めます。すなわち、仁明天皇の時代に梅から桜への植え替えが行われ、続く文徳・清和両天皇が桜見物を始めるというように、この時期から都の貴族社会では、桜を鑑賞する文化が本格的に見られるようになるのです。この時期の天皇を中心とした貴族社会の文化について明らかにすることで、左近の桜が植えられた意義についてもう少し深堀りすることができるのではないでしょうか。
いかがだったでしょうか? 笹部新太郎さんの生涯とともに、不定期連載で各地の有名な桜についてご紹介していきたいと思います。次回もお楽しみに!!
笹部さんのとっておきのコレクションを一緒に見ていきましょう!