こんにちは。ようやく秋の気配を感じられるようになってきましたね。ということで、いよいよ今年もお酒づくりの季節が近づいてきました。前回の酒トークでご紹介した桶師たちは、かつてこの時期から酒蔵で桶の修繕に取り組んでいました。一方、明治以降は酒造業界でも機械化が進んで、今や桶師の仕事を見る機会は少なくなりました。今回の酒トークでは、木製酒造道具から酒造機械への移り変わりを、醸造関係の雑誌に掲載された広告を素材にご紹介します。
明治39年(1906)1月に醸造協会(現在の日本醸造協会)が設立されると、同年『醸造協会雑誌』(現在は『日本醸造協会誌』)が刊行されます。こうした雑誌には醸造業に関わる業者が広告を掲載しており、当時最新ないしは普及していた機械について知ることができます。酒ミュージアムには明治44年(1911)3月10日に発行された『醸造協会雑誌』が収蔵されているので、まずはこの号の広告を見てみましょう。
この号には、火入機械の広告が掲載されています。火入機械とは、清酒を加熱殺菌処理するための機械です。江戸時代は酒を鉄釜に入れて火にかけて加熱していましたが、鉄釜の鉄分が酒質に影響しないように釜の内側に漆を塗るなど手間が掛かっていました。そこで考え出されたのがこの火入器で、銅製のパイプを蛇のトグロのように巻いた形状から蛇管とも呼ばれていました。酒質に影響が出ないよう内部を錫で加工したトグロ状のパイプの中に酒を通し、蛇管ごと湯の沸いた釜に漬けることで酒が加熱殺菌される仕組みとなっています。また、パイプの中に酒を輸送するのにもポンプが使用されるようになり、大正8年(1919)の号にはポンプの広告も掲載されています。このように、酒や水などの液体を運ぶ手段も桶による人海戦術からの合理化が図られました。
大正14年(1925)の号には、銅製貯蔵タンクや水圧機の広告が掲載されています。銅製タンクは、江戸時代以来長らく使用されてきた木桶に代わる貯蔵用桶として登場しました。木桶は木材が酒を吸ってしまうため、徐々に金属製のタンクに移行していきます。大正15年(1926)にホーロータンクが開発されて昭和にかけて普及すると、太平洋戦争時に銅製タンクの多くは供出となったこともあり姿を消しました。
水圧機は酒袋で醪をしぼるために使用されました。従来は人力で圧力をかけていましたが、水圧機を導入することで少ない力で、より力強く醪を搾ることができるようになりました。戦後は、より効率的な圧搾機が登場し、労働力を要する酒搾りの行程も進化していきました。
このように、雑誌の広告欄は木製の酒造道具から現代の酒造機械への移り変わりを知るうえで重要な史料となります。ご興味を持たれた方は、酒資料室「お酒づくりの道具と機械」展にもぜひお出でください。それでは来月もよろしくお願いします。
酒税が1番の時代があったんやで!