みなさん、こんにちは。今年もさくらコレクションや笹部さんについて発信を続けていきます。今後とも応援よろしくお願いいたします。
昨年令和8年(2025)は昭和100年でもあり、終戦から80年という節目の年でもありました。笹部さんは明治20年(1887)生まれ、昭和53年(1978)に亡くなったということで、活動していた時期は戦争が行われた激動の時代にも重なっています。特に昭和16年(1941)12月に始まった太平洋戦争の影響は大きいものでした。
これまでにも紹介したように、笹部さんは桜研究のために文献や美術工芸品など様々な資料を集めていました。昭和35年(1960)に神戸市岡本の邸宅へ引っ越すまでは、長年生まれ育った大阪の街に住んでいました。太平洋戦争中、大阪は8回の大空襲を含む、大小50回以上の空襲に遭いました。笹部さんは次第に激化する戦況を案じ、少しでも被害から遠ざけたいという一心で、大切な桜資料を現在の西天満小学校付近にあった邸宅から自身の演習林・亦楽山荘(宝塚市武田尾)へと疎開させることを決心しました。昭和20年(1945)6月7日の第3次大阪大空襲から間もない、6月11日のことです。
はじめは和本類を、その後掛軸や刷物、自筆資料等の順に疎開を行いました。和本はコンテナ1箱につき平均して「二貫七百目」=約10kgを詰めていたと『亦楽山荘記録』に記されています。多い時には「六貫八百目」=25.5kgもの重さの荷物を担いで満員電車に乗り、山へ通いました。
7月4日の第11回疎開の際には、先祖より伝わる掛軸《天満宮御神像画幅》《多田満仲公御神像画幅》2幅も持ち出していました。その日の『亦楽山荘記録 参拾七』の記録には「今は亡き父が明治四十二年の北区の大火の際に持て逃げた時以外に、本邸の門を出したことがない」とあり、秘蔵の家宝も疎開させるほどに戦況が差し迫っていた当時の様子がうかがえます。
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このうち《天満宮御神像画幅》は笹部氏の没後、生前の遺志により、氏子であった縁から昭和54年(1979)8月25日に大阪天満宮へ寄贈されました。現在も大阪天満宮の社宝のひとつとして、当時と同じ表装のまま大切に収蔵されています。
このような資料疎開は、8月15日の終戦を以て打ち切りとなったため、8月14日の29回目が最後の疎開となりました。途中、自身の生活拠点も疎開しようとしていたものの、結局亦楽山荘へ定住することはなく、桜資料の避難を優先した形になりました。戦火は道路を挟んで邸宅の真向かいまで迫ったものの、笹部さんの家や蔵、そして現在の笹部さくらコレクションにあたる資料群は奇跡的に焼けることなく終戦を迎えました。自叙伝『櫻男行状』では、当時桜研究に理解を示してくれた友人に「あの家など残る筈がないと誰でも考えるのに無事に助かったのは、桜が君を護ったんだ。世の中がどうあろうと、今後も桜を廃めたりなどしてはならぬ」と言われたと述懐しています。


左:地理院タイル (昭和17年(1942)大阪市航空写真)を加工して作成
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右:地理院タイル (空中写真(1945年~1950年))を加工して作成
https://cyberjapandata.gsi.go.jp/xyz/ort_USA10/17/114872/52051.png
現在開催中の冬季笹部さくら資料室展示「戦後80年 櫻男の記憶と記録をたどる」では、今回ご紹介した資料をはじめとした、笹部さんの戦前・戦中・戦後の桜事業に関する資料を展観しています。決して歩みを止めなかった「櫻男」の足跡を是非ご覧ください。
次回もお楽しみに!


桜といえば日本のもの……とも限らないのね!!