こんにちは。ゴールデンウイーク皆様いかがお過ごしでしょうか。酒ミュージアムへもぜひお越しくださいませ。今月の酒トークでは、海難事故にしばしば遭っていた樽廻船についてご紹介します。
樽廻船の海難事故の状況を今日に伝えてくれる史料に「浦手形」や「浦状」という名の史料があります。これは、樽廻船が台風などで操舵ができず漂着した先の村などによって作成された事故報告書です。ここに記される内容によって過失の有無などが判断されるため、事故に至る経緯などが詳しく記されています。
それでは辰屋吉左衛門が所有していた樽廻船辰吉丸(船頭:亀蔵、乗組員計16名)が海難事故にあった際の浦手形を見て行きましょう。こちらの浦手形には海難に遭った辰吉丸がどのような航海に就いていたのかが冒頭に記されています。それによると、万延元年(1860)4月19日、江戸へ酒3,000樽を運ぶため大坂を出航した辰吉丸は5月6日に無事江戸へ到着し、下り酒問屋に酒樽を引き渡したことがわかります。そして、5月23日に空船の状態で江戸を出航して大坂を目指します。ところが、これまで順風だった天候が6月10日昼14時頃から風向きが南東、そして南からの烈風に変り、高波の前に「身命茂(も)危ク」という状況に陥ったとあります。最終的に樽廻船内部への浸水も発生し遠州敷知郡新居町(現在の静岡県湖西市)近郊の浜辺に打ち上げられ、乗組員は水中に飛びおりて脱出し上陸しました。このように船頭はじめ乗組員による過失がなく不可抗力の海難事故であったことが、この史料からわかります。
では、この海難事故はどのように処理されたのでしょうか。幸い乗組員は全員無事で済みましたが船体は大きく破損し、漂着した地元の人々によって船道具などが回収されました。この回収された船道具や船材は現地で競売にかけられ一部が現金化されます。そして事故の処理に協力した地元の人への謝礼や経費等が差し引かれ、残金は船の所有者へ支払われます。そして、樽廻船の出資割合に応じて所有者・出資者に配分されて、事故の処理が完結します。
こうした樽廻船の海難事故は、辰屋吉左衛門が所有している樽廻船だけでも、相当数発生しています。例えばこの辰吉丸も万延元年の海難事故後、翌文久元年(1861)10月には再建されましたが、早くも文久3年(1863)7月に江戸湾内で再び海難事故に遭っています。このように、樽廻船の所有・運用は常にリスクとの隣り合わせであり、それでも上方酒造家は流通を安定させるために樽廻船への投資を行っていました。
今回は樽廻船が遭遇した海難事故とその処理についてご紹介しました。樽廻船については過去にも何度かご紹介しておりますので、今回と合わせてご覧頂ければ幸いです。それでは来月もどうぞよろしくお願い申し上げます。
江戸時代は米の時代やね。