江戸の酒流通を担った下り酒問屋

2026.01.01

 酒トークをご覧のみなさま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。今回は、現在開催中の酒資料室「お酒の商い史」に因み、江戸下り酒問屋についてご紹介しようと思います。

江戸名所図会に描かれた新川酒問屋の賑わい

 江戸時代初期から酒造りが盛んであった、伊丹や池田の酒造家の中には江戸での販売拠点として江戸店を持つ者も現れました。この江戸店が江戸下り酒問屋の始まりと考えられています。元禄16年(1703)には、瀬戸物町組・茅場町組・呉服町組・中橋組の4組計126軒もの下り酒問屋が軒を連ねていましたが、19世紀までには霊岸島の新川流域と茅場町(いずれも現在の東京都中央区)に下り酒問屋は移転・集約されていきました。幕末の慶応元年(1866)には27軒まで数を減らしましたが、下り酒問屋と言えば江戸でも有数の大店でした。

 こうした下り酒問屋は、江戸時代中期頃までに良質な酒を造る地域に成長した、大坂三郷・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・兵庫・今津・上灘・下灘(通称江戸積摂泉十二郷)の酒を荷受けし、仲買へと卸していました。そして仲買は小売酒屋や料理屋へと販売し、江戸の人々へ売り広められました。

小西利右衛門→辰馬吉左衛門 売附覚(冒頭部分)
小西利右衛門→辰馬吉左衛門 売附覚(末尾部分)販売した酒の合計が「千弐百弐拾太片馬」、その代金合計が「三千百六拾八両」余が計上されています。

 下り酒問屋という業態は、上方酒造家から酒の販売の委託を受け、「蔵敷・口銭」という倉庫保管料・販売手数料(販売価格の6%)を得るというものでした。それでは、酒ミュージアムに遺る下り酒問屋小西利右衛門から送られた書類を見てみましょう。この書類を作成した小西利右衛門と言う人物は、白雪銘柄で知られる伊丹の酒造家小西新右衛門の江戸店の責任者です。まずは、文久元年(1861)に作成された売附覚からみていきましょう。この史料には、万延元年正月(1860)から文久元年正月にかけて、小西利右衛門店で販売した白鹿印などの酒の量や価格、輸送した樽廻船の情報が記されています。この売附覚の末尾には、この期間に販売した酒の量が1,221駄片馬(=2,443樽)で、販売金額が金3,168両余であったと記されています。

仕切状(冒頭部分)赤枠に「蔵敷口銭」と記されています。

 次にご紹介するのは仕切状と呼ばれる書類です。冒頭に1,221駄片馬を金3,168両余で販売したことが記されています。続いて、樽廻船から新川の酒問屋へ酒樽を荷揚げする際に発生した費用金20両1分余、蔵敷・口銭として金190両余(6%相当)を差し引き、金2,957両2分余を酒造家辰馬吉左衛門へ送金する旨が記されています。また、送金は為替手形や小判を樽廻船に預けて送金したことが記されています。  今回は、江戸下り酒問屋の基本的なお話について紹介しました。下り酒問屋については、いろいろとご紹介したいテーマがございますので、今後の酒トークも楽しみにして頂ければと思います。

酒くん

酒造りの奥深さを、存分にお伝えするで。

桜子ちゃん

お酒にも、桜と同じように人に愛されてきた歴史があるのね。