皆さん、こんにちは。8月も半ばになり、夏休みもあとわずかですね。夏休みといえば宿題に追われた記憶が強く残っている方も多いのではないでしょうか? 特に、観察日記などは毎日継続して書かねばならないので8月末に追い込みをかける訳にもいかず大変ですよね。記録をつけるということにかけては、笹部新太郎さんはとてもマメな人物でした。今回は笹部さんが書き残した桜の研究記録の一部をご紹介していきます。
これまでのコラムで何度か登場してきた『亦楽山荘記録』も笹部さんが残した記録の一つで、昭和3年(1928)から31年(1956)にかけて、桜の演習林・亦楽山荘での出来事が記されています。たとえば、昭和17年(1942)の接木の様子をご紹介します。
接木とは、以前ご紹介した実生と同じく植物を増やす方法のひとつで、その記録からは笹部さんが接木で増やそうとした桜の種類を知ることができます。昭和17年3月30日の『亦楽山荘記録』を一部抜粋してみると、
(前略)
②―△1702湯村山枝垂(正福寺)―拾本
③―×1703仙台八重枝垂―拾五本
(後略)
と接木した内容が列挙してある箇所があります。これだけでは桜の種類と本数ぐらいしか分かりません。ここで、それぞれに付されている「△」と「×」印に注目してみましょう。実は、「△」は紀州権現平の桜を、「×」は淡墨桜を表しており、②湯村山枝垂や③仙台八重枝垂を接木で増やす際に砧木(だいぎ。接木の台にする樹木)として使用した桜の種類の違いを表しているのです。
桜の接木ではマザクラという種類の桜を砧木に使用することが多いのですが、笹部さんは異なる方法を採っていたことがここから分かります。淡墨桜や権現平の桜を砧木として選定した理由については更なる検討が必要ですが、通常使われるものとは異なる砧木を使用しているという点で、笹部さんの桜に対する研究姿勢がうかがえる貴重な史料です。
笹部さんは自身の半生を振り返って『櫻男行状』という自叙伝を残していますが、笹部さんが書き残した記録を紐解くことで、その生涯をより深堀りすることができるのです。
現在開催中の笹部さくら資料室「桜とともに」では、今回ご紹介した『亦楽山荘記録』や、笹部さんがやり取りした手紙の内容が分かる帳簿などの記録を展示し、笹部さんの植樹・移植事業を紹介しています。記録から明らかになった笹部さんの活動の実態をぜひ会場でご覧ください。
次回もお楽しみに!
西宮は桜の町なのよ!!