皆さん、こんにちは。桜や笹部さんのことについてこのコラムで知っていただきたいことはたくさんありますが、まずは簡単に笹部さんの生涯を知っていただき、追々テーマごとに深掘りさせていただこうと思います。今回から3回にわたって、笹部新太郎さんの桜に打ち込んだ生涯についてご紹介していきます。第1回目は、笹部さんが生まれてから研究の足がかりになった「亦楽山荘(えきらくさんそう)」をひらくまでをご紹介していきます。
笹部さんは明治20年(1887)、現在の大阪府大阪市北区堂島の大地主の家の次男として生まれました。そして、翌年母が死去し、笹部さんは父・浅吉によって育てられました。 その後、大阪市立西天満小学校(大阪府大阪市北区)、盈進(えいしん)高等小学校(大阪府大阪市。現在は廃校)、大阪府立第一中学校(大阪府大阪市淀川区。現在の大阪府立北野高等学校)、第七高等学校造士館(鹿児島県鹿児島市。現在の鹿児島大学)と進学していきました。
明治41年(1908)、笹部さんは東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)へと入学しました。しかし、政治の勉強に興味が持てなかった笹部さんは「この世に生まれた甲斐のあることを成し遂げてほしい」という浅吉の言葉を思い出し、『万葉集』以来、日本人を魅了してきた桜に生涯をかけて打ち込んでいくことを決めました。浅吉は笹部さんが大学在学中に死去してしまいましたので、その教えはより鮮明に笹部さんの中に残ったのではないでしょうか。
そして、東京帝大在学中の笹部さんは、あちこちの桜を観察する、手当たり次第に桜の写真を撮影する、という方法で桜研究を始めました。このように、法科の学生であるにもかかわらず、来る日も来る日も桜の写真を撮影している笹部さんに興味を持って声をかけてきた人物がいました。当時、東京帝国大学の経済学の教授を務めていた和田垣(わだがき)謙三(けんぞう)という人物です。「桜をやるからには日本一になってくれ」という和田垣の言葉に激励され、笹部さんはより熱心に桜に打ち込んでいくことになりました。
大学を卒業し、明治45年(1912)に兄・栄太郎から兵庫県宝塚市武田尾(たけだお)の土地を譲り受けた笹部さんはその山をひらき、昭和のはじめ頃に桜の研究をするための演習林「亦楽山荘」を造園しました。こうして笹部さんの桜研究が本格的に始まっていくことになりました。
次回は、様々な地に植樹を行い、自叙伝『櫻男行状』を出版する昭和の半ば頃までをご紹介したいと思います。ちなみに、第3回には、生涯の大事業である荘川桜(しょうかわざくら)の移植や「頌桜(しょうおう)の碑」の建立、ササベザクラの誕生などをご紹介する予定ですので、楽しみにお待ちいただけますと幸いです。
次回もお楽しみに!!
桜に囲まれた生活って素敵よね!!