3月末に国が「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録するようユネスコに提案し、2024年度にかけて審議されることがニュースになりました。ここでの「伝統的酒造り」とは「日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術」のことで、近代科学が成立する以前から作り手の経験によって培われた酒造りの技術といったような定義があります。酒トークでご紹介してきた江戸時代以来の日本酒にまつわる歴史や文化が、世界の文化遺産に認められることを祈るばかりです。
さて、今回の酒トークでは、そんな伝統的酒造りを行っていた江戸時代、幕府がどのように酒造りに向き合っていたのかをご紹介していきたいと思います。
江戸時代と言えば、幕府・大名、そしてそこに仕える武士たちの主な収入源は年貢米でした。また、飢饉が発生するほどの凶作も度々起こっており、幕府にとって米の供給量と価格のバランスを保つことが重要な政策課題となっていました。そのため、米を原料とする酒造業は幕府から規制を受けることもしばしばでした。
それでは関係する史料を詳しく見ていきましょう。上の写真で紹介している史料には、西宮の酒造家・辰屋吉左衛門が所有していた酒造株高が①「元株石高千四百石」と記されています。この辰屋の史料のように、酒造家は酒造りに使用できる米の量を、所有する酒造株の数量に限定されていました。辰屋は本来1,400石(1石=150㎏)の米の使用が許されていたことになります。しかし、続いて②「内百五拾石」を差し引き1,250石となっています。この理由について③「去辰年勝手ニ附当座減石仕候」とあり、数年前に勝手造り令が出ていたので生産量を減少させていたと解釈できます。勝手造り令とは、まさに酒造株の量や株の有無に関わらず、勝手に酒造りをしても良いという幕府の政策です。豊作の年に米の供給量が増加して米価格が下落すると、酒造りで使用する米を増やして市場での米価格を高めるために出されました。しかし、勝手造り令による酒の生産量の増加は米の価格を上げる一方で、酒の価格を下げることになります。辰屋が150石を「減石」していたのはその辺りに原因があるかもしれません。
さらに史料の続きを見てみましょう。上で見たように1,400石から150石を差し引いて1,250石となり、さらにこの年に酒造制限令が発令されたため、④「此三分壱」として1,250石の1/3にあたる⑤416.66石に、使用できる米の量は制限されました。酒造制限令とは、凶作等が原因で米価が高騰した時に市場への米の流通量を確保するために酒造りに使用できる米の量を制限する幕府の政策です。酒造制限令が出ると、酒造家は経営戦略に関わらず米の使用量を強制的に減らさざるを得なくなっていました。
このように江戸時代の酒造家は、米市場の変動に関連した幕府の政策変更に対応しながら経営をしなければならず、酒造り同様に経営面でも工夫していました。
それでは来月もよろしくお願い申し上げます。
杜氏に憧れるで!